越前漆器の起こりは、1500年近くの昔にさかのぼるといわれています。古墳時代の末期にあたる6世紀、第26代継体天皇がまだ皇子のころ、こわれた冠の修理を片山集落(現在の福井県鯖江市片山町)の塗師に命じられました。塗師は、冠を漆で修理するとともに黒塗りの椀を献上したところ、皇子はその見事なできばえにいたく感動し、片山集落で漆器づくりを行うように奨励しました。これが今日の越前漆器の始まりと伝えられています。
また、越前には古くからたくさんの漆かきがいました。漆かきとは、漆の木にかき傷をつけながら全国の漆液を採集する職人のことで、最盛期には全国の漆かきの半数を占めたといわれています。日光東照宮を建てるとき、徳川幕府は大量の漆液の採集を越前に命じたとか。越前の漆かきが、どんなに高く評価されていたかが分かります。こうした漆かきの存在も越前漆器の産地形成に大きな役割を果たしています。
片山地区でつくられる漆椀は片山椀と呼ばれ、室町のころから法恩講などの仏事に盛んに使われるようになりました。また、江戸時代末期になると京都から蒔絵師を招き、蒔絵の技術を導入。輪島からは沈金の技法も取り入れ、越前漆器はそれまでの堅牢さに加え、華麗な装飾性を帯びることになりました。
明治のなかば、越前漆器は大きな転換期を迎えます。それまで、製品をいえば丸物と呼ばれる椀類がほとんどだったのが、角物と呼ばれる膳類などもつくるようになったのです。以後、重箱、手箱、盆、菓子盆、花器など一挙に製品群は多様化。生産エリアでも河和田地区全体に広がり、そこで生産される漆器は、河和田塗りと呼ばれるようになりました。
さらにこうした多様な製品群を背景に、量販体制を整備しながら、旅館やレストランなどで使う業務用漆器の販路開拓に乗り出したところ、これが見事に成功。名古屋、大阪などの大消費地へ進出を果たし、河和田塗りは、いつしか越前漆器として広く愛用されるようになったのです。(越前の業務用漆器は国内生産の約80%を占めています)
出典:漆の国/越前漆器協同組合